Story
ストーリー

石井 浩一郎

NASCARレーシングドライバー

小学校5年生(10歳)の頃に夢見たレーサーになること。
一歩一歩確実に前進してきたが、そんな時、レース中の大事故による怪我、予期せぬ大病が、浩一郎の前に大きな壁となって立ちはだかるがそれでも、あきらめずに挑み続ける。
子供の頃からの夢を叶えるという強い気持ちとあきらめない情熱で奇跡を起こした。

アメリカで絶大な人気を誇るNASCARを15年間思い続けて2017年ついに参戦!

石井の幼少期

オートバイとの出会い

石井は小学校5年生の時に、姉の持っていたヘルメットが

すごくかっこいいなんだこれ!

ということからオートバイに興味を持ち、
その後テレビでロードレース世界選手権で走るフレディ・スペンサーと
ケニー・ロバーツとのレースバトルに魅了され、レースに興味を持ちました。

母親にレースをしたいと申し出たところ、うちは母子家庭でお金もないし
まずは、高校生になるまではだめだと反対される。

夢を追い続けた学生時代

小学校、中学校とレーサーを夢みながら過ごし、15歳で高校入学と同時にアルバイトを始め、念願のバイクを購入。
(KDX 250)(レース用NSR50)
高校入学し夢が後少しというところで、千葉県教育委員会の規則でレース参戦出来なかったのだが、
学校に嘆願し続けてレース参戦にこぎつけました。

バイク

ヘルメット

バイクレース

念願のレース・デビュー

18歳のとき、SP250のマシンで走った筑波サーキットでのスポーツ走行が
本格的なサーキット・デビュー。
21歳でGP125を購入しましたが、レース参戦には至りませんでした。

そして24歳のときに筑波サーキットで行われた
「テイスト・オブ・フリーランス」でレース・デビュー
しかしレーサーの道を歩み出した矢先、自家用車で市街地を走行中に2台の車に挟まる交通事故に遭遇。首を痛め、1年間のリハビリと一ヶ月の検査入院を余儀なくされました。
右の手足に麻痺があり、医者からは回復は厳しいと宣言される。

度重なる不運

リハビリが功を奏して、1年後(8月)のもて耐でサーキットに戻りますが、今度はコーナーで160kmくらいの早さでハイサイドをし、右半身筋肉座滅。

失意のどん底にいた時にレンタルビデオで観たトム・クルーズ主演の
ハリウッド映画「デイズ・オブ・サンダー」で今度はアメリカのNASCARに
魅了され、リハビリを頑張れるようになった。

夕焼け
リハビリ器具

3年間のリハビリ期間

怪我の回復が遅く一部麻痺が一生残るだろうと宣告されましたが、
必死にリハビリを3年間続け、筋肉がなくなり動かなくなった手足が
動くようになりました。

怪我をする直前の2000年の6月になぜか十勝レーシングスクールで
国内A級ライセンスを取得していました。

初参戦でクラス優勝

怪我をしてリハビリで3年を費やし2003年 4輪に転向してFJ1600などで
練習しましたが、資金面で挫折。

2003年にLAND CRUISER MAGAZINEの企画で
ASIA CROSS COUNTRY RALLYにナビゲーターとして参戦。
初参戦でクラス優勝を成し遂げました。

この年の末には自らスーパー耐久レース(S耐)に参戦する
HOT ROD CRUE RACING TEAMを立ち上げます。
スポンサーも獲得し、順風満帆に思えましたが、また災難が襲います。

カーレース
雨

右足に違和感

スポンサーからいただいた参戦費用を当時のマネージャーに持ち逃げされ、
開幕戦のみでシートを譲り渡すことになってしまったのです。

それでもレーサーへの夢を諦めきれない石井はまず借金を返すために、サラリーマンを始める、借金もだいぶ減りこれからレースへの復帰を目指そうとした矢先。
2005年のことでした。この頃から、たまに右足が急に痙攣を起こす症状に
悩まされていました。いろいろな病院に行っても原因がわからず、
ようやく翌2006年に行った大学病院で脊髄性硬化症候群と診断されます。
まだ治療方法が確立しておらず、首から下が完全に麻痺する可能性が高く
治る可能性が低い病気だと宣告されました。

夢見続けた日々

完治が困難と言われるこの病気にかかっても、
レーサーになる夢は捨てられず、さまざまな治療方法を試みます。

自分の可能性を信じ続け今はその病を克服しました。

そして今、夢のNASCAR参戦を現実にさせました。

夢

夢にまでみたNASCAR参戦

いくつもの荒波を乗り越え人生が終わるかもしれない病からの生還、ラリー初参戦で優勝。そして…!ついにNASCAR参戦を決める。

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